過不足のない関わりの中で、のびやかに自分になっていく(第3回)

過不足のない関わりの中で、のびやかに自分になっていく


 僕は、フリーキャンプが好きだ。もちろん自然体験やアウトドアが元来好きだからでもあるのですが、教育者として、教育の現場としてこれほどまでに学びを与えてくれる存在はないと考えているからです。このフリーキャンプという手法は、「自分のやってみたいこと」の意欲をベースにアクティビティや遊びのプランを展開します。「やってみたい」はとても価値があると同時に「やってみた」まではとても距離があります。ここではゲームやスマホのように簡単に楽しませてくれるものは存在しないのです。またスタッフは、大人側の一方的に「伝える」「教える」ことをする存在ではありませんし、準備されたプログラムで一方的に楽しませてくれる存在でもなく、彼らは子どもたちとアクティビティと遊びの中で、横に並び一緒になって学びや楽しさや嬉しさを見つけていく存在なのです。
 無人島キャンプで堤防から海へ飛び込むアクティビティがあります。堤防の高さは、50cmの低いところもあれば、潮の満ち引きで見上げる高さにもなるまで様々。その高さをひょいひょいと飛ぶ子も、飛び込みを見ている子も、やってみたいがベースなのでそのあり方は様々だ。「この高い方から飛びたいけどドキドキするー!」とヤマト、キャンプカウンセラーは「飛びたいんやなー!がんばれー!」となんとも心を勇気づける言葉をかける。「こうやったら怖くない」と飛び方を教える子もいます。なんとそのやり取りは半日におよび、お昼ご飯をまたいで再び堤防の上に立つヤマト、皆それぞれにやってみたいことをやってるので、その姿を弄ったりバカにもせず、ヤマトの挑戦は半日も及んでいた。そして、太陽も傾き始めた頃、ふっと飛び込んだのだった。それにも皆「やったー!」と喜ぶ、本人もキャンプカウンセラーも大喜び。ミーティングではその話題でもちきりだった。
 親や指導者、大人側は自分の経験や不安から、子どものやることに先回りして教えたり、止めたりすることが多いです。それでは、学ぶ機会を奪ってしまいがちです。ある他のキャンプでは、背中を押して飛び込みをさせること。巧妙なゴールありきのプログラム優先ということを子どもたちに提供し、「できたように錯覚させる」ことが起きてます。しかし、それが本当に彼らの真の成長になっているのか、と僕は異議を申したい。「無理してやる」「誰かにやらされる」「無自覚に決まってるからやる」ばかりでは自分の身の危険を判断する能力、物事の良し悪しを判断する力、根本的な考える力、とどのつまり自分を主体にして生きる力が失われていきます。だから僕は「やってみたい」を彼らのペースで「やってみた」このプロセスに価値があると信じている。自分を幸せにすることは自分だけが知っているのです。
 海での飛び込みのあと、キャンプメンバー全員になにか心の中で一歩先に進んでいった感覚がありました。一回の飛び込みだろうと、何百回の飛び込みだろうと、高い飛び込みだろうと、低い飛び込みだろうと、見ているだけだろうと、それぞれに育つことは育っているのです。自分でやってみる体験を通して確かな達成感や自分を生きる力につながっているとをこの現場で僕も学ばされる。より彼らの真の成長を促進するために先回りしすぎず、応援し、しっかりとよりそう中で、共に遊ぶこと、つまり「奪いすぎず、放置しすぎずの過不足ない関わり」が彼らの中に生きる手立てを取り戻していくのです。だから、僕たちは(キャンプ)カウンセラーを名乗っています。ただ遊んでいるのでもない、自由にやらせているのでもない、のびやかな関わりのなかで自分になっていくのです。