なにか手応えのある生き方「自分を生きるチカラ」(第6回)-きりかぶのめ
僕のにっぽりという名前の由来は学生時代バイクで日本一周をしていたことから、「西日本」→「西日暮里」→「にっぽり」となった。
もう10年近くも前にもなるがバイクに荷物を積み込みキャンプ(野宿)をしながら、その日いきたい場所を決めて行く、という行き当たりばったりな旅をしていた。
なにか目的やゴールがあったわけではなく、日本各地を自分の目で見てみたいのと、なにか自分のチカラでやってみたい気持ちが旅をさせていた。
今になってふりかえると雨にうたれてひたすらに我慢して走り続けることも、道に迷うこと、名もない浜辺で星空と朝日を見ること、人との出会いもすべてが、どんなことでもキラキラと輝いていた。
自分のやりたいことに没頭していたので、お金の管理、寝床の確保、食料の調達全てを考えて工夫すること、つまり動けば動くだけ経験になっていくその全てが自分で生きている実感があったのが今でも忘れられません。
そして、今やっているフリーキャンプにはとてもワクワクする遊びの体験をがたくさんあります。
自分でやりことの意欲を起点に自己決定して遊ぶ。テントを立てて寝床を自分でつくる。ご飯をたき火で炊いてみる。
野菜を収穫して切ってみる。お風呂を沸かす。暗くなればライトを出して明るくする。もちろん走る。つくる。のんびりと過ごす。
どろんこなども子どもたちからみれば本来はワクワクがあふれだす遊びであり「やってみたい」という意欲や主体性なのです。決められてないから工夫して考える余地がたくさんあるのです。
しかし、今の学習の現場の多くは、効率よく、みんな一律に、巧妙にレールに乗せることに傾倒していると感じることがあります。
親や指導者などの大人側は自分の経験や不安から、子どものやることに先回りして教えたり、止めたりすることが多いです。
それでは、せっかくのやってみたい気持ちが「誰かにやらされている」や「とりあえずやっている」になってしまってもったいないのです。自分で純粋にやってみたことの失敗は学びや経験につながっていて、なにも悪いことはないのですから。
つまり、ここでは、「なにかを学ぶ」というではなく、「いかに学ぶ」というアクティブラーニング(能動的学び)が起きているのです。
二泊三日のキャンプである子は、「工作をする!」と意気込んでます。3センチもある分厚い板を少し切ってはケイドロをして、少し切ってはご飯を食べて、工作を一緒にするキャンプカウンセラーもやりすぎず板を押さえて見守ることに努め、なんとなんと3日かけて一枚の板を切るということをやってのけたのです。
帰りのミーティングでは「工作した!」と満ち足りた表情で伝えてきて、自分で半分に切った板を宝物のように持って帰りました。
「便利で楽、でも育たない」とは、よく言ったもので今の生活には、スマホを初めスイッチひとつでつながりやモノやサービスが手に入る時代。
学校のトイレでさえ電気のスイッチが自動化されています。あるキャンプでは蛇口の下に手を出して「水が出ない」と言ってました。
そればかりだと考える、工夫するという視点はどんどん失われていき、とどのつまり自分を生きている実感を見失うことにもなりかねないのです。
本当に楽しいことはお手軽ではないのです。不便さの中にも全てを遊びに変えて、主体を持って自分なりにやってみることがこれからの時代、自分の手足で生きていく豊かさにつながっているのではないのでしょうか。